書籍「仏事・仏壇がよくわかる」を全編公開

第2章(1) 宗派の違いと供養の仕方

【1】宗派が違えば、仏壇に安置する本尊も違います

はじめて仏壇を購入したいというお客様が来店されたとき、まず、「宗派はなんでしょうか」と質問しますが、すぐに宗派をはっきりと答えられる方はわずかです。その場で田舎の親戚に電話をして確かめる方もいます。お寺の名前を覚えている方には、当方からお寺に電話をして宗派を確認することがたびたびあります。
私たち日本人はお盆には田舎に帰省して墓参りをし、クリスマスにはプレゼント交換をし、お正月には神社に初詣をする。仏教、神道、キリスト教などさまざまな宗教を受け入れ、日常生活に取り入れています。普段は自分の宗派を意識することもなく暮らしています。

そのなかで、私たちが仏教と接するのは葬式と法事のときでしょう。参列しているだけでは細部を知ることができませんが、自分で葬式と法事を営んで、はじめて真剣に宗教と向き合うのではないでしょうか。葬儀社や仏壇店から「宗派はどこですか」と聞かれて、あわててしまう方が多いのです。
仏教にはさまざまな宗派があります。宗派によって仏壇に安置する本尊も異なりますし、教義も異なりますし、お経もそれぞれなのです。
法事を営むにも、仏壇を購入するにも宗派がわからないとできません。自分の宗派を知る必要があるのです。

【2】仏教の主な宗派

インドで生まれた仏教は日本に6世紀中頃に伝わり、聖徳太子が天皇を補佐する摂政になってから、日本に仏教が広まったと言われています。聖徳太子は法隆寺を建立し、仏教を日本に定着させました。
奈良時代には仏教文化が開花しました。聖武天皇が国を守るために「諸国に国分寺・国分尼寺を建立せよ」との詔を出したことで、全国にお寺が建立されました。いまでも全国に「国分寺」の地名がその名残をとどめています。都では東大寺の大仏が建立されています。
平安時代になると、最澄と空海(のちの弘法大師)というふたりの偉大な仏教者があらわれ、最澄が開いた天台宗、空海が開いた真言宗が生まれています。
鎌倉時代には親鸞聖人や日蓮聖人など多くの宗祖があらわれ、いくつもの宗派が生まれました。現在、日本にさまざまな宗派があるのはこのためで、十三宗五十六派あるといわれています。そのなかで、主な宗派を紹介しましょう。

1.比叡山にある延暦寺が総本山の天台宗

天台宗は延暦寺(えんりゃくじ)を総本山とする宗派です。延暦寺は古くから信仰の山として知られる比叡山にあります。宗祖は伝教大師、最澄といいます。
最澄は804年、唐に留学生として留学します。同じ船には空海も乗っていたことに驚きます。
最澄は天台宗の道場がある天台山で修行をし、帰国します。帰国すると、時代は変わっていました。最澄を重用した桓武天皇は病に臥していたため、最澄は強力な後援者を失ったのです。
最澄は日本に天台宗を広めるため布教します。そして、比叡山に延暦寺を建てるために奔走しますが、生きている間には実現できませんでした。亡くなってから建立の許しがでたのです。のちに延暦寺が天台宗の総本山となりました。
その後、優秀な弟子たちの布教で発展し、天台宗の寺院には日光輪王寺、平泉の中尊寺、上野の寛永寺、長野の善光寺など由緒ある寺院があります。
諸仏諸尊はすべて本仏という考えから、本尊は釈迦如来、薬師如来、観音菩薩など多様ですが、一番多いのは阿弥陀如来です。
経典は『法華経』を根本として、阿弥陀経、大日経、梵網菩薩戒経なども経典とし、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えます。

「比叡山焼き討ち」

室町時代末期には一大勢力となっていた天台宗の僧たちは、政治が介入できない権威となっていました。京都の仏教界は天台宗が支配していたといっても過言ではないほどです。
天台宗は比叡山で独自に僧兵を養って武力も備えていたので、意に添わないことがあると、比叡山の僧兵は神輿をかついで京都に繰り出し、天皇に強訴するなど、手の出せない存在でした。
しかし、戦国時代になると、同じく武力を持つ大名とたびたび衝突していました。そして強大な武力を持った織田信長の出現で、ついに1571年、延暦寺は焼き討ちされたのです。

2.書の達人、空海が開いた真言宗

「弘法にも筆の誤り」とことわざにもなっているほどの筆の達人、弘法大師、空海が開いた宗派です。真言宗は真言密教とも言い、護摩壇(ごまだん)で護摩木を焚くことで知られています。「即身成仏」を教えの根本としています。これは密教の修行をすれば、誰でもただちに仏になることができるという教えです。
804年、31歳のとき、空海は最澄と同じ船に乗って唐に行き、唐の恵果和尚に入門します。恵果和尚は1000人を超える弟子がいるなか、空海に会うなり、「私はあなたが来るのを待っていました。すぐに密教の奥義を教えましょう」と言ったそうです。
帰国後の空海は、最澄とまったく立場が逆転します。書の達人だった嵯峨天皇に重用されて、高野山に金剛峰寺を建立し、真言宗を開きます。空海は当時の天皇や貴族たちに支持されるだけではなく、土木事業を行うなど民衆のために働いたので、民衆からの人気も高い僧でした。
その後、真言宗は分化し、多くの派が生まれています。
本尊は大日如来、主な経典は『大日経』『金剛頂経』です。「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えます。

「庶民から慕われた空海」

平安時代、嵯峨天皇らとともに三筆のひとりとされる空海は筆の達人として有名です。「弘法にも筆の誤り」のほかにも「弘法筆を選ばず」ということわざもあります。文字を書くのが上手な人は筆を選ばない、という意味です。
「護摩の灰」ということばもあります。空海が焚いた護摩の灰と称する灰をご利益があると売りつける旅の詐欺師のことです。いくつものことわざが生まれるほど、空海は広く庶民に知られる存在だったのです。
空海は唐で密教を学んだだけではなく、最新の土木技術や薬草知識などを貪欲に吸収してきました。それを庶民に広めたことが大師信仰を生んだのです。たとえば、京都の寺院では日本ではじめての庶民教育を行い、郷里の讃岐では、満濃池(まんのういけ)をつくるという土木事業を行っています。四国では空海の信仰を受け継ぎ、八十八ヶ所霊場めぐりをつづけ、いまも全国から来るお遍路さんを迎えています。

3.念仏を唱えれば救われると説いた浄土宗

はじめて民衆の間で広まった宗教が浄土宗です。宗祖の法然上人は「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる、と説き、またたくまに民衆に受け入れられたのです。
法然上人は幼くして父を失ったため、叔父のもとに預けられ、仏教を学びました。その後、すでに一大勢力となっていた比叡山東塔西谷功徳院の皇円のもとで出家しました。仏道を求めて出家したのですが、当時の比叡山は僧侶が権力闘争に明け暮れていました。法然は真摯に仏道を求める僧侶が集う西塔の黒谷別所で慈眼房叡空に入門し、その後25年間、苦悩しながら仏道を求めつづけました。
1176年、43歳のとき、中国の善導大師の「一心に阿弥陀仏の名をたたえて念仏を唱えれば極楽往生できる」という教えに触れ、浄土宗を開宗します。
「念仏を唱えれば救われる」という教えは、またたく間に人々の間に広まりました。これが比叡山の天台宗から弾圧を受ける結果となり、流罪されます。
1年足らずで許されましたが、京都に戻ることを許されたのは79歳のときです。病床に伏し、80歳で生涯を閉じました。その場所が、現在総本山となっている華頂山知恩院でした。
法然没後、弟子たちによって広められた浄土宗の「念仏を唱えれば救われる」というわかりやすい教えは、民衆の心をとらえ、さらに広まっていきました。
本尊は、阿弥陀如来、経典は観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経で、唱える文句は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」です。

4.親鸞が開いた浄土真宗

どの宗派かは知らなくても、親鸞の名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。見真大師、親鸞聖人が開いた宗派、浄土真宗は現在、巨大教団となっています。
親鸞は9歳で出家し、比叡山で20年間修行をしましたが、内面の悩みが解消されなかったため、山を下りました。京都六角堂に籠って95日目に啓示を得て、浄土宗を開いた法然上人の弟子となり、修行を積むことにしました。しかし、法然が流罪となったため、親鸞も越後に流罪となります。還俗(げんぞく)が条件でした。還俗とは僧から俗人に戻ることをいいます。以後、親鸞は僧の身分に戻ることはなく、「僧に非ず俗に非ず」という「非僧非俗」を貫きます。
越後で妻、恵信尼を娶り、子、信連を設けた親鸞は5年で流罪を許されると、妻子とともに常陸に行き、そこで主著である『教行信証』6巻を著します。この年を立教開宗の年としています。親鸞52歳のときです。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも、死後、浄土で仏になることができると説く「自力念仏」の浄土宗と違い、浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、必ず極楽浄土に行くことが約束される「他力念仏」なのです。故人はすでに極楽に生まれている、と考えるのです。
90歳で親鸞がこの世を去ると、浄土真宗は衰微していきますが、第八世蓮如によって再興します。その後は本願寺を本山として、巨大教団に発展します。
浄土真宗はその後、本願寺派、大谷派、髙田派などに分かれています。そのなかでも本願寺派と大谷派が大きく、本願寺派の本山が西本願寺であることから「お西」と呼ばれ、大谷派の本山が東本願寺であることから「お東」と呼ばれています。
本尊は、阿弥陀如来、経典は観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経で、唱える文句は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」です。

「蓮如と一休さん」

室町時代の最大の仏教者は蓮如で、庶民に人気があった僧侶は「一休さん」でした。一休はマンガでもおなじみのトンチ話で知られています。一休は臨済宗の僧でしたが、幕府に寄り添う禅のあり方に疑問を呈し、自身は質素な生活をしていました。が、その言動は奇抜で風狂だったらしく、それが人気の秘密でもあったようです。江戸時代に「一休ブーム」が起き、広く知られるようになり、いまにいたるのです。
蓮如は親鸞没後、衰退していった浄土真宗を巨大教団にまでつくりあげた立役者です。蓮如が第八世となったころ、京都にあった本願寺は非常に貧しく、食事にも事欠くほどだったそうです。蓮如は往生を約束する「御文・御文章」を門徒に対して書き、それを受けた門徒はそれを写して、他の門徒に渡すという作業を繰り返し行うことで、本願寺教団を形成していきました。
少し大きくなると、比叡山の天台宗に敵視されるようになりました。そして、1465年、本願寺は比叡山の僧侶によって破壊されたため、蓮如は越前吉崎に移り、ここに道場を築いてから、巨大な教団へと成長させたのでした。

5.「禅問答」を行う臨済宗

禅宗といえば、すぐに「座禅」を思い浮かべるほど、日本で定着しています。
禅宗には大きく臨済宗と曹洞宗の二大宗派があり、共通している部分と異なる部分があります。共通の部分は座禅で悟りを開くことと、師から弟子へと教えが伝わることを重要視している点です。
異なる点は「座禅」の仕方などが違います。禅を行うとき、臨済宗は通路に向かって座り、「看話禅(かんなぜん)」といって、師匠によって与えられた問題「公案」に弟子は身体全体で取り組み、悟りを開くというものです。
「公案」とは「禅問答」のことで、いまではむずかしい問答、訳のわからない問答といった意味に使われていますが、悟りにいたる重要な課題として「公案」を使っています。
禅宗はインドの達磨(だるま)によって520年、中国に伝えられました。ダルマは開運の縁起物として知られていますが、それは達磨が中国河南省少林寺で面壁9年の修行を行ったところからきています。壁に向かって9年間座禅を組んだため、足が腐って無くなってしまったため、ダルマには足がないのです。
達磨から11代目の臨済義玄が臨済宗を開きました。宋に留学した栄西禅師が1204年、京都に建仁寺を建立してから、日本に臨済宗が伝わります。しかし、京都は天台宗が力を持っていたので、なかなか広まりませんでした。
禅宗を広めたのは、中国から来た僧が1248年、鎌倉幕府の執権、北条時頼の全面的な支援を受けてからです。鎌倉に建長寺を建てて、禅堂での日常規範を定め、禅寺の基盤をつくりました。
1279年、北条時宗に招かれてきた中国の僧は、蒙古との戦いで命を落とした武士の追善供養のために円覚寺を建てました。次々と禅宗のお寺が建てられた当時の北鎌倉はまるで中国街のようだったそうです。建長寺と円覚寺は現在にいたるまで、禅の道場として有名です。
臨済宗は師から弟子へと伝えていくことを重んじますので、それぞれの寺院が独自の流派をもっています。妙心寺(京都市)、建長寺(鎌倉市)、円覚寺(鎌倉市)、南禅寺(京都市)などが臨済宗として有名な寺院です。
本尊は釈迦如来です。
特定の経典は定めていませんが、教化には金剛般若経、観音経、般若心経、大悲呪、座禅和讃などを用いています。
「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」と唱えます。

「位牌と茶道」

禅宗は日本独自の文化を生みだす原動力となりました。そのひとつが位牌で、鎌倉時代に中国から来た禅僧がもたらしたものです。中国儒教で祖先祭祀のときに使われる位版が起源で、儒教儀礼の影響を受けた禅宗が位牌祭祀をはじめたのです。
祖先の霊を敬っていた日本で、禅宗からもたらされた位牌は祖先の霊が宿るものとして受け入れられたのです。禅宗の寺院の位牌棚が現在の仏壇の形式のもとになっています。
もうひとつ、禅宗がもたらした文化は茶道です。室町時代に人気のあった一休のもとで、禅の修業をした村田珠光(しゅこう)が茶道の原型をつくったといわれています。その流れをくむ武野紹鴎(たけのじょうおう)の門下から千利休が出て、侘茶を確立し、茶道という日本を代表する文化にまで発展したのです。

6.ひたすら座禅することを説く曹洞宗

臨済宗と曹洞宗の一番の違いは座禅の仕方です。曹洞宗では壁に向かって座って、座禅をします。「黙照禅(もくしょうぜん)」といって、ただひたすら座禅に徹する、つまり「只管打坐(しかんたざ)」することをそのまま悟りとする教えです。
この教えを広めたのが高祖・承陽大師道元です。8歳で出家後、12歳で比叡山に入り、天台座主、公円のもとで出家します。その後、禅宗の建仁寺で、栄西の高弟、明全に師事し、23歳のとき、明全とともに宋に留学するのです。
中国で臨済宗が上流社会と交流するのに疑問を感じた道元は、ただひたすら座禅に徹する曹洞禅を学んで5年後に、明全の遺骨とともに帰国します。
俗塵を嫌った道元は、雪深い福井に永平寺を建てます。一時、北条時頼の招きで鎌倉に移りますが、すぐに永平寺に戻って隠棲し、出家至上主義をつらぬいて、54歳の生涯を閉じました。
道元から4代目にあたる太祖・常済大師瑩山(けいざん)がその後、大衆教化につとめ、現在、日本最大の寺院数を誇る巨大教団となっています。
曹洞宗では道元を宗派の父、瑩山を母にたとえ、両祖を宗祖と仰いでいます。本山は永平寺と総持寺(横浜市)です。
本尊は釈迦如来です。
経典として用いるのは、法華経、金剛経、般若心経などと、道元が著した『正法眼蔵』です。
「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」と唱えます。

「江戸時代に有名な禅僧、沢庵和尚と良寛」

臨済宗の僧、沢庵(たくわん)和尚は漬物の「タクアン」の考案者として知られた名前です。江戸時代、沢庵和尚は筋を通す清廉な人として慕われていました。沢庵和尚は1629年、徳川幕府の寺院政策を批判して流罪となりますが、正論を通すその姿勢が庶民に支持されたといいます。三代将軍、家光のときに許され、品川・東海寺に迎えられたそうです。沢庵和尚は禅だけではなく、政治・芸術の分野でも造詣が深く、また、剣の達人、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)に剣禅一如を説いたことでも知られています。
良寛は江戸時代末期の曹洞宗の僧です。教えという教えはないのですが、良寛の生き方が教えそのものであり、歌として残すほど歌人として有名で、その名が知られています。
良寛は諸国を行脚修行したのち、1796年ころ故郷の越後に戻り、国上山の五合庵に住み、農民や子どもらと交わり、超世俗的な一生を送っています。
もうひとつ、良寛を有名にしたのが70歳のとき、弟子となった30歳の貞心尼(ていしんに)と交際をはじめたことです。貞心尼はふたりで詠んだ愛の歌を歌集『蓮の露』に収めています。

7.「法華経」を大事にする日蓮宗

本尊に向かって「南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば、悟りがおのずから得られると説く日蓮宗は、宗祖・日蓮聖人の名を宗派名にしている唯一の教団です。日蓮は12歳で天台宗清澄寺に入り、16歳で出家します。21歳から比叡山、園城寺、高野山などで11年間、修行したあと、『法華経』こそ、救いのよりどころとなる唯一の経典であると確信し、1253年、立教を宣言します。
しかし、「法華経を広めようとする行者は難にあう」と法華経に書かれている予言通り、「松葉谷の法難」「小松原の法難」など数多くの難にあいました。「伊豆の法難」では「法華経信仰によって国土の安穏をはからなければならない」と説いた「立正安国論」を当時の執権北条時頼に提出すると、鎌倉幕府に危険視され、伊豆に流罪されます。
「龍の口の法難」では、佐渡に流罪される途上、暗殺されそうになりました。しかし、稲妻によって奇跡的に難を逃れたのです。
1274年、ようやく許された日蓮は、山梨県身延山に隠棲して弟子の育成にあたり、61歳の生涯を終えました。身延山に建立された久遠寺が総本山となっています。
本尊は曼荼羅です。
経典は法華経で、唱える文句は「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」です。

「鎌倉時代の仏教」

鎌倉時代は新しい宗派が次々と生まれた時代です。平安時代、仏教は貴族など支配階級のものでした。藤原一族が権勢を誇っていたとき、建立されたのが豪華絢爛な宇治の平等院です。
鎌倉時代は仏教が武士や庶民に浸透しはじめた時代です。本格的に庶民に布教をはじめたのですが、天台宗や真言宗の教えだけでは民衆の心に届かないと感じた修行者たちが独自の境地に至り、宗派を開いていきました。
法然上人が開いた浄土宗、親鸞聖人が開いた浄土真宗、禅宗の臨済宗と曹洞宗、日蓮の開いた日蓮宗と、いまの日本の宗派の基礎が確立された時代でした。

【3】お寺の年中行事

お寺ではさまざまな行事を催し、法要を営みます。お彼岸やお盆のときに営まれる法要が一番有名でしょう。その次によく知られているのが「花まつり」と呼ばれている潅仏会(かんぶつえ)です。
筆者が小さいころ、お稚児さん行列もいっしょに行われ、筆者も参加した記憶があります。小さかったので、最後まで歩けず、父に背負われてたどりついたそうです。小学生くらいのころは花まつりのとき、お菓子をくれたので、訳もわからず誕生仏に甘茶をかけていました。
現在、筆者の仏壇店がある浅草はお寺が多いので、宗派に関係なく、お寺が協力して仏教会をつくり、毎年、お寺が持ち回りで花まつりを開いています。子どもたちに参加してもらおうと工夫するのはいまも昔もかわりません。最近は交通安全の講習会などを一緒に開いています。
地域と密着しているお寺は熱心に仏教行事を開催しています。簡単に仏教の年中行事を説明しましょう。

1.修正会(しゅうしょうえ)(1月1日から7日頃)

前年に積み重ねた悪行を反省し、新しく迎えた年を祝う法要を営みます。

2.涅槃会(ねはんえ)(2月15日)

涅槃とはお釈迦さまが亡くなったことを言い、亡くなった日に涅槃会という法要を営みます。日本で最初に涅槃会が開かれたのは、推古天皇の時代、奈良の元興寺と言われています。
涅槃会のとき、涅槃図をかかげます。涅槃図には釈迦が沙羅双樹の下で頭を北に向けて横たわり、入滅、亡くなった姿が描かれています。頭を北に向けて死者を横たえる北枕は、ここからきています。

3.灌仏会(かんぶつえ)(4月8日)

お釈迦さまが生まれた日に営む法要です。花まつりとも呼ばれています。釈迦の生まれた地が花園であったことから桜などで飾った花御堂がつくられたそうです。
日本では606年から潅仏会がはじまり、9世紀には宮中の儀式になっています。その後、徐々にひろまり、日本中の寺院で行われるようになりました。
花まつりといえば、甘茶が有名です。花御堂のなかに安置された釈迦の誕生仏に甘茶をかけて誕生を祝います。これは釈迦誕生のとき、八大竜王が天から降りて香湯を注いだという故事に基づいた儀式です。
江戸時代までは仏像の頭にかける湯は、沈香、白檀、甘松、丁字などの香を袋に入れて湯にひたしたものが使われていましたが、江戸時代から甘茶が使われるようになったそうです。甘茶はユキノシタ科の甘茶と呼ばれる低木の葉を乾燥させて煎じたもので、参拝者はひしゃくで仏頭に甘茶を注ぎます。甘茶を飲むと、無病息災が得られるとも信じられています。

4.施餓鬼会(せがきえ)(日にちは各寺院で異なります)

餓鬼道や地獄に落ちて苦しんでいる霊を救うための法要を営みます。餓鬼とは若くして死んだ者のことで、この世に未練があって往生成仏できない霊のことをさします。施餓鬼会は現在、往生成仏できない精霊のため、自分自身が餓鬼道に堕ちないために行われているようです。

5.御会式(おえしき)(10月12日・13日)

日蓮宗の宗祖、日蓮聖人の忌日法要を営みます。日蓮聖人は61歳で江戸の池上で亡くなったことから、池上本門寺の御会式は盛大に行われることで知られています。

6.報恩講(ほうおんこう)(日にちは各寺院で異なります)

浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の忌日に営まれる法要です。親鸞聖人が1262年11月28日に往生されるや、遺族や門徒らが月忌・年忌ごとに各道場に集い、念仏和讃などを唱えることからはじまり、いまに続いています。

7.成道会(じょうどうえ)(12月8日)

お釈迦さまが悟りを開かれた日に営む法要です。禅宗の寺院では12月1日から7日の夜、または8日の朝まで不眠不休で座禅が行われます。これを蝋八会(ろうはちえ)と言います。

書籍「仏事・仏壇がよくわかる」

本記事は書籍「仏事・仏壇がよくわかる」からの転載です。

著:滝田 雅敏